時間旅行者の夢(78) [小説『タイムトラベラーの夢』]
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レイナ・ランスロットは聞いていなかった。床を滑るような風変りな歩き方で部屋を横切り、翠川努と目を見かわした。そして、きわめて穏やかに言った。
「残念ながら、わたしの体は長旅で汚れています。出来れば、まずそれを清めたいのです。あなたと一緒に入浴する光栄に預かれないでしょうか?」
誰もが唖然とした。
レイナが突拍子もない要求を持ち出すだろうことは覚悟していても、のっけから、しかも先ほど噛みつかれた翠川に対して、そんな注文をするとは思ってもいなかったのである。
ヒカルはギクッと体を強張らせ、レイナを見た。どうやって翠川をこの苦境から救い出そうかと迷った。
しかし、救助の必要はなかったのである。翠川は、一緒に入浴しようというレイナの申し出を、なんの躊躇いもなく承諾したのだ。
富岡早苗がニコニコ笑っていた。有藤が片目をつぶってみせた。道長遥子は非難の声を上げた。
レイナは軽く一礼して──それも、お辞儀の仕方をまだよく知らないと言いたげに、腰だけでなく膝まで一緒に屈めてから──さっさと翠川を部屋から連れ出した。
あまりの早ワザに、ヒカルたちはキョトンと見送っていた。ようやく、道長女史が我に返って言った。
「あんなことをするのを許してはおけないわ」
「翠川さんは抗議しなかったわよ」
と、富岡早苗が言った。「あれは彼の意志だわ」
するとなんと、フィル・シェルが拳を手の平に打ちつけて怒鳴った。
これにはヒカルは驚いた。その行動もだが、彼が言い放った言葉に対して。
「わたしは辞任させてもらう! 愚劣さも極まれりだ! 到底お付き合い出来ない!」
有藤と川田が同時に彼を振り返った。
「まあまあ、落ちついて」
と、有藤が言うのと同時に、川田も言った。
「フィルさん、お言葉ですが……」
「仮に彼女がこのわたしに向かって一緒に入浴してくれと申し出たら、いったいどうする?」
と、フィルは詰問した。「我々は彼女のどんな気紛れにも応じなくちゃならんのか? そんな馬鹿げたお付き合いなど、わたしは真っ平だ!」
川田が答えた。
「どう見ても無茶な要求にまで応じろとは誰も申しておりません、フィルさん。翠川博士は承諾を強(し)いられてはいなかったのです。
承諾なさったのは、和やかな空気を作るためと──あと、心理学的理由のためでしょう。見上げたものだと、わたしは思います。
しかし、彼が『はい』と答えねばならぬ義務はどこにもありませんし、またあなたにもないわけで……」
富岡早苗が穏やかに間に入った。
「フィルちゃん、あなたがこんなに早く辞任するなんて残念だわ」
この言葉に、フィルはむっとした顔で睨み返した。富岡女史は更に言った。
「これからの八〇〇年の動向を、彼女と心ゆくまで議論したかったでしょうに。もう、そのチャンスともお別れね。
川田さんの立場としても、協力を拒んだあなたにレイナ・ランスロットとの会見を許すわけにはいかないでしょうし、それに、喜んであなたの代理を務めたい人は沢山いることだしね。そうじゃない?」
富岡のからかいは効果てきめんだった。間もなくフィルは、まだ辞任したわけではなく辞任をほのめかしただけだと言った。
川田はしばらく相手をじたばたさせておいてから、やっとこの顛末を綺麗さっぱり忘れることに同意した。
最後にはフィルも、この仕事に対して以後はもっと自重した態度をとることを、渋々約束する羽目になった。
フィルの横でずっとその言動を見ていたヒカルは、彼がどうしてそのようなことを言い出したのか理解出来なかった。なにか別の一面を見せられたような気がした。
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