無ノ世界(最終回) [小説『ZILCH WORLD ‐ 無ノ世界』]
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娘は父親の顔を覚えきらずに育つのか。もの心つく頃、母子家庭であることに娘はどう思うのだろう。
もっと抱いてやれば良かった……。
丸い闇の傍らの水辺で膝を抱え、マコトは長いあいだ呆然としていた。
ここでは時の流れというものが自覚できないが、彼は数日間に相当する長い時をじっとしていた。
眠気も来ないから、寝て気を休めることも出来ないことに気付く。
マコトは自らを哀れんだ。いろんな思いが頭の中を廻り出し、鼻の奥がつーんと熱くなってきた。
自分だけがこのような状況下にあって、それでも悲しみだけはやって来る。涙がポロポロと零れた。
このようにサンプリングされ、隔離された状況でも、涙を零せることが不思議に思えた。
零れた涙の先を見つめる。
水に映る自分の姿は今までと同じだ。でも、人間のままだと言えるのだろうか。もう怒る気力もないが、喜怒哀楽のモジュールを残されたことが、逆に残酷に思えた。
やがて身を乗り出すと、彼は丸い闇を覗き込んだ。
「だー、だー」
穴の中からメイの可愛いらしい声が聞こえて驚いた。
「だー、だー」
「メイに見送って欲しいんだよ」
自分の声だ。
じっと耳を澄ました。
「赤ん坊よ。そんなこと分からないわ」
妻のアイだ。
「そのうち玄関までよちよちついて来て、『パパ、行ってらっちゃい』なんて言われたい」
今朝の会話だった。だが、もう千年も昔のような気がした。
「はいはい。それまで、もうちょっと待っててね」
幻聴だと分かっていた。しょうがねえな、俺も……。
また涙がひとすじ流れ落ち、マコトの顔が丸い闇に触れるほど近付いていった。
◇
男は起き上がった。隣を見ると、妻はまだ寝ている。
台所へ行き、いつものようにトースターに食パンを入れてレバーを下げた。
顔を洗いに行き、背広に着替える。
そうこうしているとパンが焼けているので、カップに野菜ジュースを半分入れて牛乳を足し、朝食を摂る。
「ばー、だー」
と言いながら、隣の部屋の入り口で幼い娘が座っていた。もう目が覚めたのか。
その声に気付いてか、妻が起きて来て向かい側に座わった。
「おはよ」と、まだ眠そうである。
「顔ぐらい洗って来たら?」と、男は言う。
【多草川 航/作】
なにをするわけでもなく亭主と我が子を交互に見た妻は、小さく欠伸をしてから立ち上がり、テレビをつけた。
それはいつもの朝だった。
‐了‐
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