セリナの恋(8) [小説『セリナの恋』]
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彼がなにか言いたくて、言い出しかねているのが、セリナには分かるのだった。
「あ、遊覧船が帰る」
と、ずっと先を指差してセリナが言った。
サンフランシスコ湾内に浮かぶアルカトラズ島の向こうに、明かりを灯した船が小さく見えた。
「この堤防の先、深さ、知ってる?」
セリナが、沖へ向かって十ヤード(約9メートル)ほどの位置に視線をあてながら、静かに言った。「あのあたり」
翔一が顔を上げ、暗い海上へ視線を泳がせた。
「深いのか」
「とても深い。ドロップ・オフになっていて、いきなりストーンと陥没してるの」
「どれくらいあるんだろう」
翔一が興味を抱いた。
「たぶん二百ヤード」
「いきなり二百ヤード落ちこむのか」
「そうよ。泳いでいると分かるわ。わたし、子供の頃から、学校休みに入るとここで遊んでた。
あの辺りは三ヤードから深くて五ヤードだから。いきなり水の色が変わるのよ。水温も」
「怖くないのか」
「体の下に二百ヤードの奈落があると意識したら、もう行けないわね。パニックになっちゃうもの。水の色が黒いのよ」
翔一の目がその辺りの海上に釘付けになる。
「結婚したくないんでしょ? 本当は」
自分の耳にも、他人のように響く声で、セリナが不意に言った。翔一の体が一瞬固くなった。
「そのこと、言い出しにくかったんでしょ?」
「分かってたのか……」
低い、聞き取れないような声で、翔一は言った。
「昨日、なんとなく、そんな予感がしたの」
「しかし、昨日は酔っていたが、俺、本気だったんだ。尚書館文芸賞取っても、取らなくても、セリナと一緒になるつもりだった。一緒になりたかった」
「そうじゃないのよ。一緒に居たかっただけよ。心が騒いで、不安で、なにかを待っていたから、一人でいたくなかったのよ」
「俺、長いこと、セリナを待たせたから」
翔一が項垂れた。
「ショウはこの一年ずっと心が騒いでいて、不安で、なにかを待っていたわ。
そして、そのなにかを今日手に入れたのよ。その途端、一人でいることが淋しくなくなった。そういうことじゃない?」
セリナは指輪を見詰めた。
「約束は守るよ。いずれセリナとは一緒になるつもりだ。ただ、今すぐにではなく……」
セリナは遠い対岸を探そうと、その辺りに視線を這わせた。サウサリート辺りの灯りが、薄ぼんやりと見えた。
「約束なんてしないほうが、いいんじゃないかしら」
溜息のようにセリナが言った。
「そういう気分になったとき、プロポーズしてみてよ」
翔一の肩から力が抜けるのが、隣にいてセリナには感じられた。
「ねえ? ショウ。この指輪、外してもいいかしら」
翔一はいいとも、悪いとも言い出しかねていた。
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