セリナの恋(7) [小説『セリナの恋』]
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「なにも仕事、辞めなくてもいいんじゃないか?」
再び動作を再開しながら、少し掠れた感じの声で翔一が言った。「急になにかが酷く変わるってわけでもないんだしさ」
「それはそうだけど」
と、夜の海からの潮風を顔に受けながら、セリナは恋人の横顔に瞳を凝らした。
家から零れ出ている蛍光灯の光りの先端が、蒼白い輪郭を浮かび上がらせていた。
彼は頬の汗をむやみに拭い、たてつづけにグラスをあおった。
「おばあさまに、わたしたちのこと話したの」
と、セリナは声の調子を半音ほど意識して上げた。
「そう、なんて言ってた?」
黒い動かない海を、翔一は目をすぼめて見ていた。
「白い馬に乗って来る騎士みたいだって」
「白い馬の代わりに、ウイスキーのボトル抱えて来た」
と、翔一が苦笑した。「セリナの婆さま、腰抜かすかな」
「それくらいじゃ驚かない。おじいさまって人が一升酒呑む人だったらしいの……」
翔一は骨ばった肩のあたりを揺すりながら、セリナの話に耳を傾けていた。
「俺たちのことだけど」
セリナが祖父のことを喋り終えると、唐突に翔一が言った。
その声の調子に、セリナはハッとして彼を見詰めた。なにか恐ろしいことが、彼の口をついて言われようとしている──そんな差し迫った予感があった。
なにかすぐにでも別のことを言わなければならなかった。
「明日、帰る?」
「そうだな、朝ここを出たい」
「じゃ、わたしも一緒に帰ろうかな」
「どうして? せっかく休みをとったんだから、セリナはここにいたらいい」
「一人でいても詰まらないもの」
翔一は酔がまわったのか頭を深く両膝の上にたれ、長いことじっとしていた。
「それにすることが色々あるから。不動産屋をあたったり……」
翔一の指は、彼の薬指の指輪を撫でていた。それは完全に無意識の仕草だった。
「……わたしの両親にも会ってもらわないと。ねえ、会ってくれるでしょ?」
両膝の上に低く垂れていた頭が上がった。
「堤防のほうまで、少し歩こうか」
出し抜けに翔一がそう言い、同じような唐突さで立ち上った。
セリナもつられて慌てて立った。黒光りする海面の所どころに、青白い燐光が散っていた。
「夜光虫だ」と、翔一が眩いた。
それきり二人は長いこと押し黙って歩いた。
見詰めていると、黒い波間の燐光の数が増えていった。目がそのあたりの暗さに慣れるに従って、夜光虫の数が増した。
セリナは、翔一の息遣いを聞いていた。二人は堤防の突端に並んで膝を抱いて坐った。
翔一からは汗の匂いもしていた。時々呼吸が不規則になって、息を詰めるような気配もした。
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