セリナの恋(6) [小説『セリナの恋』]

DSCN0040.jpg

前話へ


 晴れがましさの絶頂にいる恋人が遠かった。電話でうわずった声で喋り続けていた翔一の言葉が、出し抜けに甦る。


『これで俺も作家の仲間入りだ。サラリーマンにならなくて済む。尚書館文芸賞の特選なら、一人でやっていける……』


 太陽に赤味が加わるにつれて、海上に風が吹きだした。海の上を一陣、また一陣と柔らかい風が掠めるようにして、幾分冷えた潮の香りを運んでくる。


 最初の風の一陣が裏庭に吹き込むと、蝉たちが一斉にピタリと鳴き止んだ。

 


 翔一が到着したのは、夜の十時を少し回った時だった。

 待ちかねたセリナの目に真っ先に映ったのは、手にしたウイスキーのボトルだった。ボトルの中の液体が、翔一の胸のあたりでチャプチャプと音を立てていた。


「呑みながら来たんでしょう」
 セリナはボトルから、婚約者の顔に視線を戻しながら言った。


 翔一の顎のあたりに、うっすらと無精髭が伸びていた。そのせいか顔全体に影のようなものが漂い、翔一はいつもより引きしまった表情をしていた。


「ストリートカー(注釈:単車体の電車のようなやつです)の中でね、一番後の座席で呑んでいた。でも、ストリートカーが揺れるんで、零れちまうほうが多かった」


 祖母は蚊帳の中だったので、前庭の松の下に出しておいた木製のベンチへ翔一を案内した。


「腹空いてないんだ。ツマミもいらない」

 翔一がベンチの端に、なにか大切な物であるかのように、ボトルを置きながら言った。


 セリナは頷いて、用意してあった二つのグラスに砕氷を入れた。そこへ翔一がウイスキーを注ぎ入れた。


「乾杯」と、彼がグラスを上げた。


「おめでとう、特選!」

 セリナが、そのグラスに自分のを軽く触れながら言った。「嬉しいこと、二つになるね、これで」


「二つ?」

 グラスの陰から、翔一が訊き返した。


「わたしたち、結婚するんでしょ? すぐに」


「ああ、そのことか」


 翔一がそう言ってグラスの中味を一気に喉へ流し込んだ。そして、それが彼の癖なのだが、酷く顔をしかめて呑み込んだ。


「仕事どうしようかと思って……」

 と、セリナは実際には辞める決意が固まっていたが、そんな風に甘えた感じで言った。


「どうするって?」

 二杯目のウイスキーをグラスへ注ぎ入れながら、翔一が訊き返した。


「先のことは、どうするか分からないけど、辞めようかなって考えているの、いろいろ準備もあるし」


 彼の動作が一瞬止まる。その横顔に、苦痛としか言えないような、ある表情が表れ、そのために彼は別人のように見えた。


次話へ≫          [ブログトップ


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。