セリナの恋(6) [小説『セリナの恋』]
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晴れがましさの絶頂にいる恋人が遠かった。電話でうわずった声で喋り続けていた翔一の言葉が、出し抜けに甦る。
『これで俺も作家の仲間入りだ。サラリーマンにならなくて済む。尚書館文芸賞の特選なら、一人でやっていける……』
太陽に赤味が加わるにつれて、海上に風が吹きだした。海の上を一陣、また一陣と柔らかい風が掠めるようにして、幾分冷えた潮の香りを運んでくる。
最初の風の一陣が裏庭に吹き込むと、蝉たちが一斉にピタリと鳴き止んだ。
翔一が到着したのは、夜の十時を少し回った時だった。
待ちかねたセリナの目に真っ先に映ったのは、手にしたウイスキーのボトルだった。ボトルの中の液体が、翔一の胸のあたりでチャプチャプと音を立てていた。
「呑みながら来たんでしょう」
セリナはボトルから、婚約者の顔に視線を戻しながら言った。
翔一の顎のあたりに、うっすらと無精髭が伸びていた。そのせいか顔全体に影のようなものが漂い、翔一はいつもより引きしまった表情をしていた。
「ストリートカー(注釈:単車体の電車のようなやつです)の中でね、一番後の座席で呑んでいた。でも、ストリートカーが揺れるんで、零れちまうほうが多かった」
祖母は蚊帳の中だったので、前庭の松の下に出しておいた木製のベンチへ翔一を案内した。
「腹空いてないんだ。ツマミもいらない」
翔一がベンチの端に、なにか大切な物であるかのように、ボトルを置きながら言った。
セリナは頷いて、用意してあった二つのグラスに砕氷を入れた。そこへ翔一がウイスキーを注ぎ入れた。
「乾杯」と、彼がグラスを上げた。
「おめでとう、特選!」
セリナが、そのグラスに自分のを軽く触れながら言った。「嬉しいこと、二つになるね、これで」
「二つ?」
グラスの陰から、翔一が訊き返した。
「わたしたち、結婚するんでしょ? すぐに」
「ああ、そのことか」
翔一がそう言ってグラスの中味を一気に喉へ流し込んだ。そして、それが彼の癖なのだが、酷く顔をしかめて呑み込んだ。
「仕事どうしようかと思って……」
と、セリナは実際には辞める決意が固まっていたが、そんな風に甘えた感じで言った。
「どうするって?」
二杯目のウイスキーをグラスへ注ぎ入れながら、翔一が訊き返した。
「先のことは、どうするか分からないけど、辞めようかなって考えているの、いろいろ準備もあるし」
彼の動作が一瞬止まる。その横顔に、苦痛としか言えないような、ある表情が表れ、そのために彼は別人のように見えた。
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