セリナの恋(4) [小説『セリナの恋』]



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 戦後まもなく、この土地に移り住み、大事に使って来た蚊帳(かや)の中で、祖母は団扇(うちわ)を使っている。


「男衆かね」
 と、骨ばった手の動きを止めて、祖母が訊き返した。


「そうよ。結婚するのよ、その人と」


「それで、セリナを迎えに? 白馬に乗った騎士のような男衆だねえ」

 祖母がそう言って笑った。


 入れ歯を外して枕元に置いてあった。歯がない口元は、笑うと暗い小さな洞窟に見えた。


「男衆は日本から、お見えか?」

 団扇の動きを再開しながら、祖母が再び訊いた。


 絨毯の上に茣蓙を敷き、その上に布団を敷いた生活を続けている。暗緑色の蚊帳は深い海底を思わせた。

 あるかなきかの夜風のせいで蚊帳が揺れると、いよいよ海流のうねりのようにセリナの目に映った。

 暗緑色の海の底で、老婆はほとんど骨の原形そのものの姿で静かに横たわっていた。


「あら、わたし前に話したかしら……」


「東の方角から男衆が来るのは、よくないねえ」

 ぽつりと祖母が言った。


「どうして?」


 あけ放ってある窓から、夜の海が一枚の黒い布のように見えていた。


「方角が悪いからねえ」


「また、おばあさまの迷信が始まった。ここでは関係ありません。わたしは信じませんから」


「わたしが言うんじゃないんだよ。昔の偉い人のお告げなんだよ。ほら……」


「日本の昔話、何度も聞いたわ」

 と、セリナは磨き終えた指輪を元の指に戻しながら、遮るように言った。


「ベルナルドは最近見えないねえ」

 祖母は唐突にその名を出した。「今日は何曜日だい? 御用聞きに来てもいい頃なのに」


 対岸のフィッシャーマンズワーフで親子代々海産物を売っている若者のことが、祖母のお気に入りだった。ベルナルドは、セリナより数カ月若い、気さくな青年である。


「おばあさま、魚屋さんが来るのは明日の朝だわ、きっと……そして、おばあさまの霊感も信じる。だけど彼はね、悪い知らせを持って来るわけじゃないの。わたしと結婚するために来るのよ」


 セリナは、蚊帳の中に手を差し入れて、やさしく祖母の脹脛(ふくらはぎ)をさすった。老女の足はひんやりとしていた。骨を僅かに覆っている薄い皮膚は、妙にすべすべしていた。


 そのすべやかな染みの浮いている薄い皮膚。すぐ裏側にある骨の感触が、セリナの指先にじかに伝わってきた。哀れさや愛しさが募ると同時に、老いというものに対する本能的な嫌悪や怯えの感情が入り混った。


 セリナは夏掛けを祖母の腰まで引き上げると、そっと蚊帳から離れた。隣室に引きとったあとも、祖母の使う団扇の音がパタパタと聞こえていた。


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