セリナの恋(3) [小説『セリナの恋』]
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「いずれにしろ、俺は全力投球したからな。入る入らないは、もうどうでもいい」
口ではそう言いながら、期待と不安とがどうしようもなく滲みでた声で婚約者は言った。
「入選しなけりゃ、東京の奴らは才能をひとつ見落としたってことだよ。損をするのは俺じゃない、奴らのほうだ。やるだけのことをやったんだから……」
そして切羽詰まった声で唐突にこう付け足した。
「セリナ、結婚しよう。入っても入らなくても、俺たちはすぐ一緒になろう」
指に嵌った銀製の指輪を見詰めながら、セリナはその声を聞いていた。
「なにか言うことはないのか」と、彼が言っていた。
「あるわ、たくさん。でも明日の夜まで、とっておく」
入ったばかりの会社に辞表を出すのかとか、部屋を見つけたりしなければならないことや、双方の親に二人が結婚することを告げる大仕事についての相談が山ほどあった。
「明日の夜か」
と、電話の中で翔一が呻いた。「長いな。明日の夜なんて来るのかな」
「眠ってしまえば、目が覚めるのはどうせ昼頃でしょう。あっという間に時間が経つわ」
「眠れればな。セリナに会いたい。セリナを抱きたい。なんでこんな時に会社休んで、婆さまの所へなんか行っちまったんだ」
「ショウが一人で執筆したがっていたからよ。ショウの近くでうろうろしていると足手まといになると感じたから」
「悪かったな。しかしそれも終わった。なにもかも出し切っちまって、すかーんと虚ろだ。セリナ、海が見えるのか?」
「ええ。黒い海面に堤防の裸電球、いくつも長い尾をひいて、ゆらゆら揺れてる」
「うん、そいつが俺にも見える。セリナの目で見ているものが、俺にはそのまま見える。明日の夜、会おう。明日の夜、俺たちは結婚する。いいね?」
そして翔一の電話は、セリナがサヨナラを言う前に切れた。
セリナは出し抜けに幸福の絶頂にいる自分を見いだしてうろたえた。気持ちを落ちつけるために、指輪を外してスカートの裾で磨き始めた。
自分がこの瞬間を待ち望んでいたことが、はっきりと分かった。
結婚なんて形式にすぎないとか、したいときが年貢の納めどきだとか、口では翔一に合わせて、どうでもいいようなことを言ってきたが、あれはポーズだった。
自分は結婚が、喉から手が出るくらいしたかった。
しかし、黙っていてよかった。そんな素振りをほとんど見せないで来て良かった。翔一は押しつけがましい女は嫌いだから。
「おばあさま、明日お客さま、来ますから」
と、祖母の顔を見てセリナは言った。
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