セリナの恋(1) [小説『セリナの恋』]
留学生の彼は切羽詰まった声で言った。
「結婚しよう。すぐに一緒になろうよ!」
遊び心から始まった若い二人の恋愛感情。
それは、やがて……。
セリナの恋
〈恋愛小説〉
サンフランシスコ湾に面した祖母の家のテラスから、霞んだような熱気の下に横たわる静かな海面を眺めていたセリナは、溜息をついて腰を上げた。
風のない午後だったので、前庭の半分以上を覆っている巨大な松の葉陰にいても、暑さはさほど変わらない。そろそろ日射しが西日に変わろうとしている時刻だった。
高田翔一からの電話は遅れていた。東京の尚書館文芸賞の発表内容が分かるのは、こちらの時間で十六時頃だから、どんなに遅くとも十六時半頃までには連絡が入るはずだった。
もし、だめだったらとセリナは、庭先の松の幹に背をもたせながら、次第に悲観的になっていく思いを一人でもてあまし始めていた。
「執筆家の登竜門のひとつともいえる尚書館文芸賞に入選できたら、俺たち結婚しよう」
と、翔一はこの一年間ずっと言い続けてきた。
「もし、賞に入らなかったらどうするの? また一年待つの?」
と、セリナは深刻な表情でキーボードを打ち続ける恋人の傍で、相手の負担に聞こえないような言い方で、たった一度だけ訊いたことがあった。
翔一の左手の薬指に、平打ちの銀の指輪が嵌められていた。本来は結婚指輪として使用されるものらしかったが、ただシンプルで美しいという理由で、対(つい)で求めたものだった。
一年前のある夕方、待ち合わせていたユニオン・スクエア前のビルの入口を入ってすぐの所に、アクセサリー売場があった。
翔一が遅れて来るのを待つ間、セリナは時間潰しにショーケースの中を覗いていた。
彼が来て、「なにを見ているんだい?」と訊きながら、銀の平打ちの指輪に目を止めた。「婚約しようか?」
出し抜けに、彼はそう訊いた。
「うん、いいわ」
同じように唐突な感じで、セリナも同意した。
翔一がジーンズの尻のポケットから無造作にドル紙幣を何枚か引き抜いて、指輪を二つ買った。両方で五十ドル出して、幾らかお釣りが来た。
ほんの出来心、遊び心で始まったことだった。
好きあっていることを隠すこともなかったので、翔一の留学仲間と酒を呑む席などで、彼は婚約を口にして、おめでとうと無理矢理に仲間たちに言わせて面白がっていた。
二人の婚約は、双方の親や親類を除いては周知の事実となった。
銀の平打ちの指輪は、初めのうちキラキラしすぎて指になじまなかった。
常に違和感があり、その小さな存在が気になった。晴れがましいような、面映ゆいような、嬉しいような感情に、ちょっぴり諦めの気持ちなども混った。
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